オススメの歴史書と歴史小説
この間鎌倉文学館に行ってきました。原稿を見ました。川端康成は達筆ですね。夏目漱石は物理の先生の字みたいでした。直木三十五の字が小さすぎて可愛かったです。
何だかとっても最近TwitterのTLが騒がしいです。私のTLだけだと思います。何故かというと私はマニ車botだけではなく、数多くの歴史クラスタ(分野を問わず)をフォローしていて、その人たちが一斉にキレ散らかしているのです。
歴史書と歴史小説はアルザス・ロレーヌ地方をめぐるフランスとドイツのごとく仲が悪いので暇さえあれば喧嘩しているようです。ただ、今回は勝手が違ったらしい。
歴史書は複雑で多面的な話をしなければならないため(Aという事件が起きた際、より公平さを期すため、Bサイドから見た話・Cサイドから見た話、D、E、F…、俯瞰的に見ようと試みた話、当時の社会情勢の話などを同時にしなければならないからです)、難解な言葉で書かれており、さらに、歴史書が書かれた当時流行した哲学や社会思想も知っておかないと理解できないものです。
20世紀で一番ヤバイすごいと言われている歴史家はフェルナン・ブローデルだそうですが(諸説あります)、彼の著書『地中海』は控えめに言ってヤバいと思います。スペインに君臨したフェリペ2世時代の話を書くだけなのに分厚いやつが5冊分もあります。
〈普及版〉 地中海 I 〔環境の役割〕 (〈普及版〉 地中海(全5分冊))
- 作者: フェルナン・ブローデル,浜名優美
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2004/01/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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何故か。ブローデルは環境→人間→社会→政治とどんどん人の営みを掘り下げて書いていき、最終的にフェリペ2世が地中海でどうやって地中海の覇権を失っていったかを書いているのです。
もう一つ、こちらは中世イスラム最大の学者と呼ばれるイブン・ハルドゥーンが書いた歴史序説という本があります。
こちらも「第一部・人間の文明の本質について」という一部の人以外は「ウゲッ、俺は単に中世イスラム史が知りたかっただけでうぁぁぁあ」となること必定です。
ご存命中の方の著作で、ヤバイすごいのはこれですかね
近代世界システムI―農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立―
- 作者: I.ウォーラーステイン,川北稔
- 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
- 発売日: 2013/10/10
- メディア: 単行本
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「世界システム論」というものを軸に書かれている歴史書です。批判もありますしいろいろとうーんとなるところもありますが基本的にすごいやばいです
なんといってもこれ分厚いの4冊分あるんですが、だいたい1500年代の大航海時代から現在まで、つまり500年ちょっとの歴史しか書いていないのに、4冊書いてもまだ終わらないところがヤバイです。ウォーラーステイン先生が亡くなるまでに「近代世界システム」は完結するのかどうか、もう結構なお歳なので寿命との戦いです。
私は2巻まで読んで頭を本の角にぶつけました
- 作者: ウィリアム・H.マクニール,William H. McNeill,増田義郎,佐々木昭夫
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2008/01/25
- メディア: 文庫
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あとこれ。世界史と銘打っていますが感染症vs人類の歴史です
読んでいる最中、凶悪な感染症が出てくる夢を見ました
じゃあ日本史でヤバイ優れた歴史学者は?と言われると、網野善彦かな〜と思います。
ヤベ〜〜としかいえませんでした
メディアに露出する前の本郷和人先生の本はヤバみ凄みがありました。
ヤバみしか感じなかった本です。
これもなかなかヤバみがありますが、メディアに出るようになってから、方向転換して一般大衆にもわかるように、次第に明快でわかりやすい著述をめざすようになっているようです。
普段歴史学者(ウォーラーステインは社会学者ですが)は、のほほんと史料の解読をしたり、考古学者と遺跡の発掘に勤しんだりしていますが、本気を出すと「俺の話を聞け」とトチ狂ってこうなったり、ああなったりして分厚い本でぶん殴ってくる生き物です。
文章作成+ストーリー作成のプロが歴史事象をストーリーに当てはめて書く歴史小説は、歴史事象の理解の一助となります。歴史小説は嘘をかいているのではなく、上記のイかれた小難しい歴史書群をストーリーに当てはめて書いているのです。
すごい有名なやつです。日露戦争を一つは現場にいた軍人の視点から、もう一つは当時の文学的視点から描いたもので、「なるほど日露戦争ってチビの日本とでかいけどオンボロなロシアが戦ったのか」と綺麗に理解できます。また秋山真之という一海軍軍人の物語でもあります。ですが、そのために陸軍の、特に乃木希典やロシアの皆さんが悪役として犠牲になっていることを忘れてはいけません。ですが、日本海海戦をメインで書くこの本にとって、ロシアの皆さんと乃木希典の犠牲は仕方のないことでもあります。そう割り切れるのは、なにより話が面白いからです。
- 作者: マルグリット・ユルスナール,多田智満子
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2008/12/16
- メディア: 単行本
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同性愛者であるハドリアヌス帝の心理的側面を分析したものです。手紙形式でかかれてあり、宛先はハドリアヌス帝の寵愛を受けたとされるマルクス・アウレリウス帝です。
腐った女子は萌え死んでしまう本ですが、アエリウス・カエサルのケツの穴が犠牲になっていることを忘れてはいけません。ひょっとしたらマルクス帝のケツの穴も犠牲になっているかもしれません。でも読み応えがあり美しく悲しいです。
陶晴賢という山口県あたりでハッスルしていた謀反人(言い方がひどい)の小説です。これはおもしろいぞ。ただユルスナールレベルではありませんが主人公が衆道を修めているため美少年との濡れ場があります。
腐った女子は萌え死んでしまう本ですが、大内義隆の善政と相良武任が犠牲になっていることを忘れてはいけません。でも面白いです。
平たく言えば、陶晴賢の後ろの貞操を気にするのが歴史小説と言えるでしょう。信憑性がアレとはいえ、史料に陶晴賢の後ろの貞操の件が載っている上、物語としても「愛する人間を殺す」という非常にいいものが作れるため、後ろの貞操の件が載っている史料の信憑性が薄いからといって、陶晴賢は掘られていたのかどうかを気にしない歴史小説は面白くないと思います。断言しよう。面白くない!!
逆に陶晴賢の後ろの貞操を気にしても仕方ないとするのが(ジェンダー史や性風俗史以外の)歴史書の態度です。むしろ、陶が謀反して今の山口県一体あたりや日本全体はどう変わったのか、陶が謀反した資金源はどこから来たのか、何故大内義隆はあっけなく死んだのか、冷泉隆豊が義隆に味方した背景とは?ということを考えます。そっちに主眼を置くため、陶晴賢と大内義隆の熱くて甘い日々の事は「陰徳太平記」にこういうことがかいてありますよ、としか書きません。
ちなみに、ブローデルの師匠であるリュシアン・フェーヴルは「文献に基づき厳密に再現する歴史学」を嫌っています。史料といっても文字史料のみならず、絵画をはじめとした芸術作品を史料として積極的に取り入れ、さまざまな学問の視点を取り入れる必要があるんだとおっしゃっておられます。そういう歴史家もいます。
ちなみに「文献に基づき厳密に再現する歴史学」を確立したのはランケという学者です。
史料批判という手法もランケが確立しました。
これも書き手のやばさをかんじます。おすすめです
史料に基づかない歴史書は単なる空想なので論外ですし、嘘か嘘でないかも大切な事です。史料を利用して書いている以上嘘を書く/史料を利用したことを明記しないとそれを残した人たちに失礼にも当たります。
ここまで見てきてわかると思いますが、正直に言えば、歴史書や歴史小説を、記者たちが取材してくるノンフィクションものと同等に捉える事はできません。
史料で歴史事象をできる限り忠実に再現してから、が問題です。ブローデルやイブン・ハルドゥーン、ウォーラーステインがやりたい事は、史料のかけらを集めて人間社会の本質や文明の本質に迫る事です。ランケも同じです。逆に司馬遼太郎やユルスナールは「人間」そのものを描くために史料のかけらを集めています。その先なのです。
ちなみにブローデルはWW2の中、ドイツ軍に囚われて捕虜生活を送りました。その捕虜生活中、戦前に作成していた学習用ノートを凄まじい記憶力で思い返して先ほどの『地中海』の元となる博士論文の執筆を行なっていたと言います。その間に、ブローデルの友人であるマルク・ブロックはドイツ軍に銃殺刑にされました。
ユルスナールは同性愛者で、同じく同性愛者であるハドリアヌスを通じて同性愛というものを模索していました。司馬遼太郎の成長期には第二次世界大戦が影を落としていました。
それを考えたとき、私は、決して歴史の真実に迫るだの、歴史小説はフィクションではないなどという軽薄な言葉は口にできません。
……という攻撃的なことを書くと昨今の風潮ではpv数が上がってこのブログが読まれオススメの書籍が読まれると聞きました(*^◯^*)
みんな全部これ読んでくれ!!!とくに腐った人はハドリアヌス帝と悪名のこすとも読んでくれ!ちなみに網野善彦もオススメだぁ!北条時宗が!網野善彦vs本郷和人は見ていて面白い!!
堀辰雄『聖家族』を読んで水垢離したくなった話
*ここに書き連ねられている感想は読書感想ではなく、単なる読書妄想です。
*以前別のブログに書いたものを大幅に書き直したものです
・主人公には師と仰ぐ人物がいる。
・主人公はすくなくとも15歳までに、その師につきしたがい始めた。
・軽井沢のホテルに、15歳の彼は、師に連れて行ってもらったことがある。
・師は主人公を裏返しにしたような存在である。
・師は死んでなお、主人公を支配する。
これをもって自分の理性が崩れ、腐女子の心がむくむくと出て来るのを抑えることができず、冷静になるために水垢離をしたくなったことをここにご報告する。
それがこの本、堀辰雄御大のお書きになった『聖家族』だ。
- 著者と概要
- 登場人物
- 九鬼と河野
- 河野扁理という「少年」
- 九鬼という人
- 憑きもの
- おまけ
著者と概要
堀辰雄(1906〜1953)は、『風立ちぬ*1』『菜穂子』『大和路・信濃路』を書いたことで有名な文学者だ。同時期に活躍した文学者として、川端康成・太宰治・伊藤整・小林秀雄等がいる。芥川龍之介と室生犀星に師事し、輝かしい文学的経歴を歩む。立原道造や遠藤周作に事実上師事されていた。
母を関東大震災で失い、もっとも敬愛する師であった芥川の自殺後、婚約者も病で失う。しかも、当時、有効な治療法がほとんど確立されていなかった結核に感染していることが判明し、後半生は軽井沢での療養生活を強いられた。そのせいか、「常に死と隣り合わせ」の匂い漂う文学的題材を取り扱う傾向が強いようだ。また、文章の「静寂」さを表すのに長け*2、草木や花などの自然描写を心理描写に重ねるような書き方をする。
『聖家族』は1930年、堀が26歳の時に書いた初期の作品だ。
師のような存在であった九鬼が「不自然な死」を遂げた後、河野という青年が出会った、九鬼の恋人であった細木夫人やその娘との交流・恋愛を軸に、河野の魂の遍歴を描いたものである。
文体としては一見、堅いように思われるが、改行が多いので読みにくいということはない。また、上流社会を題材にしたらしい洗練された風俗の描写、女性陣の上品な言葉遣いは魅惑的である。
特に参照しているSDP文庫のものは、文字も程よい大きさであり、美しい洋館や教会でモデルが撮影している写真が初めの何ページかに入るため、難しい「近代文学」を読んでいる感覚は薄い。ゆえに初めて気安く手に取ると思われるときはおすすめである。
ただで読みたければ青空文庫がある。
登場人物
河野扁理…20歳。気弱さを正面に押し出すことで自分を守ろうとする性格。九鬼を裏返しにしたよう、と称される。
細木夫人…どこぞの貴婦人。九鬼の恋人であったようだが、かなり複雑な関係であった模様。
細木絹子…17歳で、細木夫人の娘。母を愛するも、九鬼の死をさかいに、母の「女性」性を見てしまってから、「母の眼を通じて」、河野=九鬼を見るようになる。
斯波…河野の友人で、「こわれたギターのような声」という謎ヴォイスの持ち主。
踊り子…河野の「浮気」相手。明るく見えて実は河野並みに繊細で気弱。
九鬼…故人。河野の師にして細木夫人の愛人。河野とは対照的に自分の気弱さを世間に見せまいと肩肘を張って、不自然な死を遂げる。河野を裏返しにしたような御仁であったようだ。皮肉な笑みを浮かべることが得意。
はぁ。ここまで理性の崩壊をなんとか抑えて来たのですけれども。許してください。むり。だめ。
おお神よ。私にはこれが耽美な師弟BLにしか読めなかったのです……。
九鬼と河野
なんで耽美な師弟BLにしか見えなかったかというと、非常にごく単純な理由である。
軽井沢のマンペイ・ホテルで偶然、彼女は九鬼に出会ったことがあった。その時九鬼はひとりの十五ぐらいの少年を連れていたが、彼はその少年にちがいないと思い出した。
堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p.10
扁理の方では、勿論、数年前、軽井沢で九鬼といっしょに出会ったその夫人のことを忘れている筈はない。
その時、彼は十五であった。
彼はまだ快活で、無邪気な少年だった。堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p.11
(下線部はこのブログ書いてる人が引きました)
たった 十五歳の少年が、親でもない人と軽井沢のホテルに行くってどういう状況よ?
ちなみにマンペイホテルは、堀もよく宿泊した、軽井沢の老舗高級ホテル・「万平ホテル」をおそらくモデルにしているのではないかと思われる。
話を元に戻すけど たった十五歳の少年が 親でもない人と 軽井沢の老舗高級ホテル(仮)に何しにいってんだ???宿泊料金は誰が出すんだ?九鬼か?
九鬼は、なぜ息子ではないはずの、十五歳の少年の軽井沢の老舗高級ホテルの宿泊料金を出すのか。なぜ?
そこで、煩悩が尽きぬことに思い出したのが、古代ギリシアのパイデラスティアー(制度的少年愛)である。年長者が少年を愛し(いろんな意味で)、教育することで立派な人間に教育して行く。
いや、それだろ。それを二人で実践してるんだろ。
これがこれから水垢離フラグになるとも知らず。
河野扁理という「少年」
九鬼はこの少年を非常に好きだったらしい。堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p.15
ど直球の文である。私はダメになった。好きだったらしい。ってどういうこと。非常に好きだったらしいってどういうこと。好きってそもそもどういうこと。ねぇ
パイデラスティアーの関係を結んでいるだろ絶対この二人はと妄想させた後でのこれである。ダメである。堀御大、まって、息させてくれ
河野に親の気配はない。母も父も、河野の影には存在しない。九鬼と出会う前の河野は、何をしていたのかさっぱり書かれていない。二十歳といえば、堀は東京帝国大学国文学科に入学する前年で、第一高等学校(いわゆる超絶エリート高校・一高である)にいたようである。河野も高等学校、ないしは大学に行く話がでていてもいいものを、河野は主人公でありながら、何者で、何をしているのか、その来歴すらも、全くかかれないのである。そもそも、九鬼が河野に何を教えていたか、文中ではまったく、かかれていないのである。ただただ、河野の過去には九鬼がいるだけなのだ。
ただ、河野は友人である斯波についてこう語る。
「あいつはまるで壁の花みたいな奴ですよ。そら、舞踏会で踊れないもんだから、壁にばかりくっついている奴がよくあるでしょう。そういう奴のことを英語で Wall Flower というんだそうだけれど……斯波の人生における立場なんか全くそれですね」
堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p. 33
河野は舞踏会に出たことがある、というか頻回に出ているようである。
そういう自分の貧しさをどうしてこういう豊かな夫人たちの前で告白するような気になったのか、扁理自身にもよく分らなかった。
堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p. 20
前後の文を見るに、河野自身の心の貧しさ、ともとれるが、経済的な貧しさとも解釈することができる。とはいえ、物語上で「公式カップル」である絹子のモノローグとして、こんなものがある。
このながく眠っていた
薔薇 を開かせるためには、たった一つの言葉で充分だったのだ。それは踊り子の一語だ。扁理といっしょにいた人はそんな人だったのか、と彼女は考え出した。私はそれを私と同じような身分の人とばかり考えていたのに。そしてそういう人だけしか扁理の相手にはなれないと思っていたのに。……堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p. 34
(下線部はこのブログ書いてる人が引きました)
絹子は身分が上流階級だと思われるので、それと釣り合う河野も上流階級出身の青年だと考えられる。
ということはだよ。つまりだよ。こういう可能性があるじゃんか。
「もともと上流階級の出であった河野は、親を早くに亡くし、九鬼に引き取られた」。
それがこれから水垢離フラグになるとも知らず。
九鬼という人
河野に多大な影響を与えたにも関わらず、九鬼に妻や子供がいたかどうか定かでない。いたとしても、書かれていないという事実が、九鬼の孤独さを表しているかのようである。ただ、遺族はいたようで、河野は遺族から遺品の整理を依頼されている。
恋人は細木夫人のようであるが、彼女は夫を早くに亡くした未亡人であり、さらに、どうやら九鬼と複雑な関係にあったようで、彼女とも距離が近いとは言い難い。
その快活そうな少年を見ながら、彼女がすこし意地わるそうに、「あなたによく似ていますわ。あなたのお子さんじゃありませんの?」そう言うと、九鬼は何か反撥するような微笑をしたきり黙りこんでしまった。その時くらい九鬼が自分を憎んでいるように思われたことはない……
堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p. 10
河野自身、九鬼が細木夫人といわゆる「両片思い」であった可能性を考えている。
この人もまた九鬼を愛していたのにちがいない、九鬼がこの人を愛していたように。と扁理は考えた。しかしこの人の硬い心は彼の弱い心を傷つけずにそれに触れることが出来なかったのだ。丁度ダイアモンドが
硝子 に触れるとそれを傷つけずにはおかないように。そしてこの人もまた自分で相手につけた傷のために苦しんでいる……堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p. 18
言い換えれば、九鬼は華やかな世界(と思われる)の裏で、ほとんど誰にも心開くことなく死んでいった、孤高のインテリ系華やか貴族の可能性が高い。
完璧じゃんか。完璧。これで何も起きないはずがない。不幸な生い立ちの少年と孤高のインテリ系華やか貴族(たぶん)。完璧。完の壁!!!
さらに掘り下げて見ると、九鬼の精神構造について、こう書かれてある。
九鬼は自分の気弱さを世間に見せまいとしてそれを独特な皮肉でなければ現わすまいとした人だった。九鬼はそれになかば成功したと言っていい。だが、彼自身の心の中に隠すことが出来れば出来るほど、その気弱さは彼にはますます堪え難いものになって行った。扁理はそういう不幸を目の前に見ていた。そして九鬼と同じような気弱さを持っていた扁理は、そこで彼とは反対に、そういう気弱さを出来るだけ自分の表面に持ち出そうとしていた。彼がそれにどれだけ成功するかは、これからの問題だが。
堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p. 15
さらに、細木夫人はこう考えている。
まるで九鬼を裏がえしにしたような青年だ。
堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p. 14
精神的類似性がある九鬼と河野は、お互い惹かれ会わざるを得なかったのだろう。そうなのだろう。まるで不幸な生い立ちの少年と孤高のインテリ系華やか貴族がお互いの孤独さを舐め合うかのように。
あーーーーーーー!おいしい!!!ご飯おかわり!!!!もうこれだけでご飯三杯いける!!!!!!めしうま!!!ぱねえ!こういうの好き!!!
さらにおまけがつくことに、九鬼は細木夫人を愛している。それを河野は知っている。しかし、九鬼が愛している女性であるので彼女を無条件に崇拝している。その複雑な構図のことを考えただけで、………あーーーーー!めしうま!!!めしうま!!!!
ああああああすき
……そう思ったことが水垢離フラグになるとも知らず。
憑きもの
最後に、まとめとして、九鬼と河野はいかなる関係性だったか文中に書いてあるので、おさらいしてみよう。
そうして扁理はようやく理解し出した、死んだ九鬼が自分の裏側にたえず生きていて、いまだに自分を力強く支配していることを、そしてそれに気づかなかったことが自分の生の乱雑さの原因であったことを。
堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p. 40
もう一つ。細木夫人が自信ありげに言っている。
それはあの方には九鬼さんが
憑 いていなさるかも知れないわ。けれども、そのためにかえってあの方は救われるのじゃなくって?堀辰雄『聖家族』SDP文庫、p. 45
河野はなぜか次第に生活が荒み、踊り子と刹那的な恋をし、死を考えるまでになる。しかし、死を思いとどまったシーンが上記、そしてそれに絹子が気付いた時、母である細木夫人が発する言葉がコレなのである。
「見守る」「守る」、などという優しいワードではなく、「支配」「憑く」という呪縛や束縛を思い起こさせるワードをここに書いていることがポイントである。
これはほとんど結論と言って差し支えないところであり、絹子と河野はおそらく結ばれず、河野は九鬼に精神的に束縛されていることを自覚するところで終わるのである。
なにこれ。なんだこれ。とうとい……何を読まされているんだ私……
河野が生き続けるためには、九鬼が憑かなければならない。なんだこれは。
なんでこんなとうといものを読まされなければならんのだ
とうとい、とうとすぎる。
もちろん絹子と河野の恋が主題なのであるのは重々承知なのだけれども、彼らが結ばれるためには九鬼を何とかしなければならず、九鬼は死んでしまった今、どうともできず、永遠に河野の心を縛り続けるのである……
\(^o^)/
ありがとう堀御大。わたしはしばらく生きていける。こんなおいしい話をありがとう……近代文学万歳………
しかし、私はすっかり、本のそでを見るのをすっかり忘れていたのである。
このままの雰囲気で終わりたい方は続きを読まないでください。
↓水垢離しなきゃ
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